2016年10月30日
5月31日、武道館。モーニング娘。’16ライブに行った。
熱気でむせかえる会場。満場のオーディエンス。
そこで見た彼女たちのパフォーマンスは圧巻だった。
すでに彼女たちの主演舞台、『続・11人いる!』の稽古はスタートしていた。
歌稽古、ダンス稽古、芝居稽古、アクション稽古、
連日続く稽古と同時進行で、ライブのリハーサルをし、あの日を迎えたということになる。
スタジオでの彼女たちと向き合っているだけに、
一体どこにそんな体力と精神力の余剰があったのだろうかと、
余剰どころか、ステージに立つ彼女たちは皆一様に、全身全霊ではないか、と戦慄する。
背筋が伸びるとは、このことを言う。
彼女たちは、大人よりもずっと大人なのだ。
彼女たちはあの日をもって、11人になった。
その場に立ち会った私は、
この舞台の始まりは必ず、11人いる彼女たちの「宣誓」のような場面にしたいと思った。
彼女たちは、ここに立っている。決然として。
その「覚悟」のようなものを、表したいと思った。
マジシャンの原(大樹)さんにアイデアを頂き、
オープニングは11人全員が投げた光が一点に集まりタイトルが出る、という演出に決めた。
モーニング娘。はここにいる。戦う「11人」。
彼女たちは歴史を負い、人生のメタファーのようなステージに、「立ち続ける」。
グループの歴史と、観客の期待と欲望、願いと祈り全てを、その細い体に負って。
彼女たちの「覚悟」の匂いを、客席に届けたいと思った。
稽古の序盤、印象的だったことがある。
稽古を始めるに当たり、ストレッチを行った。
彼女たちのパフォーマーとしての身体から、俳優としての身体に切り替える一つの過程を設けたのである。
たまたまその日私は、ふくちゃんのストレッチパートナーとなった。
モーニング娘。’16のリーダー、譜久村聖である。
今まで演出家として、講師として、様々な身体の介添えをしてきた。
身体には、表向きの物言いや態度よりも率直に、「その人とその歴史」が映し出される。
俳優、学生、会社員、主婦、老若男女、様々な職種の人々の身体が語る言葉を受け取る。
サラリーマンをしている人は、営業職の人と事務職の人で身体が違う。
学校の先生は、たいてい体の一部が固まっている。
大勢の生徒、教師、保護者と対する上での「防衛ライン」である。
それは人によって、首だったり、喉だったり、胸だったりする。
日々の積み重ねによって構築した「型」。
良い悪いではなく、それが日々、エネルギーをかけて人と対するということなのである。
電車の中で人の身体を観察してみると、様々なことが分かる。
おおらかな身体、視野狭窄的な身体、脱力して己をゆだねている身体、強迫的な身体…。
物言うよりも、その人そのものが浮かび上がる。
そして、せわしない社会の中で生きながら、緻密にバランスを取りつつ生きている、
人々のこころの内奥が、浮かび上がってくるのである。
人を束ね、導くリーダーの立場の人たちは、
多くの場合、体の大部分が大胆に解放されている。
ライブで見せるダイナミックかつ華のある動きから、ふくちゃんもそうしたタイプなのだろうと半ば想像して、背中に触れた。その時に、あることに気づいたのである。
彼女の背中は、「背負う」背中だったのだ。
肩から肩甲骨にかけて、彼女の筋肉は、多くのものを抱えていた。
それは言いかえれば、「リーダーとしての責任」とも表せるものである。
しかもその背負い方にはおそらく、妥協や逃げがない。
彼女は半ば無意識に、リーダーとして、どんな些細なことにも目をかけ気を配り、
グループで起こる一切を、その身と心に背負おうとしているのだと感じた。
この若さで、いい大人たちの多くが、体よく程よく逃げることでモノにする「リーダーとしての責任」を、彼女は全身で負おうとしている。
守りや逃げの一切を選ばず、捨て身で、真っ直ぐに。
彼女の心根が沁み込んだ筋肉をほぐしながら、切なく、胸を打たれた。
と同時に、このリーダーを支え、彼女の本懐が遂げられるよう、力を尽くしたいと思った。
稽古場で見る彼女は、細やかなことに目をかけ、
個性豊かなメンバーが、個性豊かなまま自分を表現することを下支えしようとしていた。
威圧せず専横をふるわぬ、繊細な感性を持った「現代のリーダー」である。
作中に、「マヤの火」という楽曲がある。
この曲は、音楽家・和田俊輔氏の真骨頂とも言える難曲だった。
さらにこの楽曲に、振付のみつばち先生、SHUU先生は、緻密で高難度の振りをつけた。
オナ役のふくちゃん、そしてまりあ(牧野真莉愛)は、この楽曲の習得に、全力で挑んだ。
その過程で、私は、ふくちゃんの身体が変わっていくのを目の当たりにした。
初めはどこか不安げに、上半身に力が入り、呼吸が上がった状態だった彼女の身体は、
彼女ならではの絶え間ない練習とその繰り返しを経て、大胆に開いていった。
結果、この作中でも、彼女の華のある魅力が存分に発揮された楽曲となった。
そして2バージョン上演のもうひと役、バセスカ王には、
彼女にしか表現できない王の孤独、背負う王の悲哀が乗った。
彼女にしか演じられないバセスカが、そこに「存在」した。
彼女がステージで見せるダイナミックで大人の華を漂わせるパフォーマンスは、
彼女の不断の努力と、決して逃げない精神性によって構築されたものなのだろう。
敬意を持つ気持ちには、年齢も立場も関係ない。
私はあの日以来、譜久村聖に敬意を抱いた。
そしてことあるごとに思い出すのである。
自分は彼女のように逃げずに目の前のこと全てを受け止めて生きていられるだろうか、と。
そしてその全てに、絶え間ない努力としなやかな精神で、立ち向かっているだろうか、と。
リーダーの背中には、努力と苦悩と、深い愛情がこもっていた。
≪池袋サンシャイン劇場にて。モーニング娘。’16メンバーと共に≫